峠越えを中心としたサイクルツーリングの記録、ちょっと懐かしい峠みちやカタログ、70年代〜80年代のヨーロッパのロードレース、プラモデル製作などについてご紹介しています。
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19750317 - 鶴峠越え<1975年3月17日走行>
当時は片倉シルクのロードレーサーしか持っていなかったのですが、ツーリングは峠越え指向がますます強まりつつありました。
その頃は東京近郊の峠道はまだまだダートが多かったのですが、何しろ1台しか持っていなかったので、どこへ行くにもロードレーサーで出かけていました。普段はウォルバーインターナショナルというチューブラータイヤを履いていましたが、ダートに行く時は、ソーヨーの#100というサイドまでゴムで覆われたタイヤに付け替えていきました。、
私が700Cの細いタイヤでダートを走る事に抵抗が無いのも、こんな当時の状況が影響しているのだと思います。
鶴峠は今や完全舗装ですが、当時はなかなか荒れたダートが続き、いかにも峠越えという感じの道でした。
以下の走行データ、レポートは、体裁を一部変更していますが、文面は当時書いたものをほぼそのまま再録しています。
ところどころに赤字で書いている部分は今回付けた注釈です。
走行データ
- 走行距離:63km、所要時間:4時間45分、平均時速:13.3km/h、費用:1250円
- 行程:
国鉄青梅線奥多摩駅−(7km)−奥多摩湖−(17km)−余沢−(2km)−鶴峠・松姫峠分岐−(7km)−松姫峠(885m)−m)−国鉄中央本線上野原駅
レポート
家を7時15分に出発、吉祥寺で自転車をばらして電車に乗った。手回り品キップが100円になっていた。※それまでは80円でした。立川で奥多摩行きに乗り換える。8時48分発の電車に、客はそんなにいない。
奥多摩駅に着いたのは大体10時5分頃。ボチボチ組み立てて出発したのは10時20分ぐらいだった。去年の今頃とちがって、奥多摩湖への道はそんなにつらくない。フロントは一度も落とさなかった。※ちなみにギヤはF48×42、R14〜22でした。
去年も立ち寄った店でにぎりめし(250円也)を作ってもらって、ダムを後にした。この道路は湖の縁に沿っていてほぼ平坦なので、非常に走りやすい。ほぼトップギヤで走った。橋をいくつか過ぎて地道になったが、またすぐ舗装になったので快調に飛ばした。
余沢というバス停の手前を左折して急な坂道を下ると、そこからは鶴峠への道となる。小永田という集落から道は急な坂道となり、さっそく押し上げ。道は地道で、しかもぬかるんでいるので走りにくいことおびただしいが、それをいつしか走りぬけると、道は本格的な峠道となった。
時々カメラを取り出しながら進むと、途中におじさんが2人メシを食べていたので、鶴峠への道を聞くと、もうすぐだとの事。その通りで、すぐ前の尾根の向こうにどうやら峠らしいものが。
やはり鶴峠であった。峠はただの切り通しで、そこからはすぐ下りだった。時間は12時15分。
お湯をわかして、※固形燃料でアルミボトルの水を直接沸かしていました。握り飯と紅茶の昼めしである。ボトルを掴んだらやけどをしてしまった。
昼めしも終わり、下り始めたのは1時頃。そこからの下りはすごいもので、タイヤが非常に心配だったが、どうやら大丈夫だった。しかし下っても下っても人家は無く、かえって山へ山へという感じだった。
最初の集落は長作というところだったが、本当に小さい集落でせいぜい5〜6軒というところだった。それからは時々集落もあり、舗装になったりして、なかなか変化がありおもしろいコースであった。途中でパンクしたらしいので、前輪を取り替えて慎重に走っていった。やがて道は段々舗装が多くなり、それとともに人家も多くなってきて、人里に帰って来たような気がしてきた。
上野原に着いたのは15時ごろ。電車は15時34分発の高尾行。高尾からは京王線で帰ってきて、帰宅は17時だった。良いコースだったが、やはり峠道にチューブラーでは心もとない気がした。
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